電車に乗っているときに、スマートフォンを見る機会が減りました。というのも、以前、ふとスマホから顔を上げて周りを眺めたときに、みんな猫背になって一心に画面を見入っていて…。知らず知らずのうちに姿勢が悪くなってしまうので、そうしてまで見入るものではないなと思いました…。
で、先週は少し疲れてしまったので、メンタルケア
をするべく、電車の中では座れてもパソコンを開かず、本を読む時間に費やしました。「メンタルケア」と言っても、そういう類いの本や自己啓発本を読むというわけではありません。読むのはもっぱら小説ばかり。日に200ページくらい
を読み進めてしまったので、積んでた本を3冊、ハイペースで消化しました
。小説の世界に浸ると日常を少し忘れ、空想に遊ぶことができるので、私にとっては何よりのメンタルケアです。
ちょっと前を振り返ると、高校生の頃は胸を張って言えるくらいの本好きで、「ミステリー小説→お気に入りの作家の小説→純文学か初めましての作家の小説」というサイクルで読んでいました。幸いにして通学ルート
が上下逆方向で、朝は下りだったのでゆったり座って本を読めました。帰りも始発駅だったのでやはり座って読書。帰り道、一駅だけ足を伸ばせば大型書店があったので、初めましての作家さんに関してはジャケ買い
をするか、最初に少し立ち読みして買っていたと思います。
高校生を通じて(今もそうですが)恩田陸さんや北村薫さん、唯川恵さん、宮本輝さんなどは良く手にしました。あるいは山本文緒さんや柳美里さん、吉本ばななさん。それに浅田次郎さんや三浦綾子さんの作品はじっくり読んだと思いますし、もちろん漱石や、ヘミングウェイや、とにかく手当たり次第。いま思えばむちゃくちゃな読み方をしていました。漱石を読んだあと、すぐに西村京太郎さんのトラベルミステリーを読むとか…

(今日のブログは、そんな合わないの旅ですので、合わないなと感じた場所でぜひ自由に離脱してください
)
「合わない」とはどういうことなのでしょうか。私が買うのは文庫本です。何らかの雑誌に連載され、ハードカバーの単行本になり、さらに売れると見込まれて文庫になった本たち。一流作家が書いた、間違いのない本です。
それ以来、スマートフォンを見るのは、必要なLINEを返すときか、アプリで新聞を読むときだけ。電車に乗っている間、パソコンで仕事を片付けるか、なるべく本を読むか、車窓の広い世界を眺めるか、小さな画面よりも大きなものを見つめるようになりました。(パソコンに見入るのも良いとは思いませんが…
)




駅に着いて、「もうちょっと読みたいな」と思いながら本を閉じ、空想と現実の間をふらふらしながら改札に向かう時が、実は幸せな時かもしれません。


高校生を通じて(今もそうですが)恩田陸さんや北村薫さん、唯川恵さん、宮本輝さんなどは良く手にしました。あるいは山本文緒さんや柳美里さん、吉本ばななさん。それに浅田次郎さんや三浦綾子さんの作品はじっくり読んだと思いますし、もちろん漱石や、ヘミングウェイや、とにかく手当たり次第。いま思えばむちゃくちゃな読み方をしていました。漱石を読んだあと、すぐに西村京太郎さんのトラベルミステリーを読むとか…


そんな私ですが、十ページくらいを読んで「合わない」と思って読むのをやめた本もあります。
(今日のブログは、そんな合わないの旅ですので、合わないなと感じた場所でぜひ自由に離脱してください

「合わない」とはどういうことなのでしょうか。私が買うのは文庫本です。何らかの雑誌に連載され、ハードカバーの単行本になり、さらに売れると見込まれて文庫になった本たち。一流作家が書いた、間違いのない本です。
謎解きのヒントになるような記事がありました。
以前に書いたかもしれませんが、小説誌にリービ英雄さんと富岡幸一郎さんの対談が掲載され、紙幅を割いて文体の話をしています(「すばる」2017年10月号)。このとき、リービさんの作品が評論家の小島信夫さんから「緊張感がある」という指摘を得たというくだりがありました。
どういうことかと思って後日、リービさんの作品を読んだところ、確かに緊張感というべきか、弓の張ったような高いテンションの文章が綴られていました。大作家を前に私が感想を述べるのはおこがましいのですが、この緊張感がゆえに私は「作品は興味深いが、私には合わない」というざっくりとした印象を受けました。
以前に書いたかもしれませんが、小説誌にリービ英雄さんと富岡幸一郎さんの対談が掲載され、紙幅を割いて文体の話をしています(「すばる」2017年10月号)。このとき、リービさんの作品が評論家の小島信夫さんから「緊張感がある」という指摘を得たというくだりがありました。
どういうことかと思って後日、リービさんの作品を読んだところ、確かに緊張感というべきか、弓の張ったような高いテンションの文章が綴られていました。大作家を前に私が感想を述べるのはおこがましいのですが、この緊張感がゆえに私は「作品は興味深いが、私には合わない」というざっくりとした印象を受けました。
実はそこが「合う」「合わない」を分けているのかもしれません。作品世界に入れるかどうかではなく、本を読もうとしている私のテンションと、本のテンションは似通っているかどうか。突き詰めればテンションというのは文体や構成などに分解して分析できるのでしょうけれど、十分にテンションの合う合わないで私の頭は納得してくれそうです。あるいはバイオリズムなんて言っても良いでしょう。
そうでないと、蒼き高校生の私が唯川恵さんや山本文緒さんにはまるわけもありません
。大人の恋愛や人間模様を描いている作品群ですからね…。逆に、江國香織さんは私には合わなかった。江國さんの作品は文学的に見ても素晴らしく、読者が付いていけないようなストーリーの飛躍もありません。それなのに私が何冊も手にしなかったのは、テンションなり、バイオリズムなりが合わなかったということなのでしょう。

リズムの合う作家の作品は、容易に空想に浸れます。現実逃避でき、日常からしばらくの間、遠ざかることができます。つまりは、私にとってはつかの間の気分転換、いわばメンタルケアになるというわけです。疲れているときに何も無理して文字ばかり読まなくても、と思われるかもしれませんが、気の置けない友だちと机をばんばん叩きながら笑い合っているのと同じ。波長が合う人といるのは楽しいですから、それと同じように波長の合うものを読んでいます

ということで、バタバタと読んだ3冊のうち一冊はお気に入りの作家さんから。恩田陸さんの夏の名残の薔薇を読みました。ちょうどこの小説には巻末の解説欄に恩田さんへのインタビューも載っていました(いまから15年前の収録)。このインタビューは初めて読みましたが、恩田さんの作品に多い三人称多視点について、解説の杉江松恋さんとともに論じられています。
フィクション、ノンフィクションを問わず、主人公の視座でとうとうと語る一人称単一視点、作家が空から眺めるように作品を語る三人称単一視点(神の視点とも言われます)などと書き方はさまざまですが、恩田さんの場合は視点が複合的で行き来する作品が目立ちます(三人称多視点)。「三人称か、章ごとに一々語り手が替わるっていうのは書きやすいですね」とは恩田さん本人。A、B、Cと主要登場人物がいたときに、章ごとに語り手が入れ替わり、最初はAの視点でBとCを語り、次にBの視点でAとCを語るようなストーリーが続きます。
それに、いろんな種をばらまくだけばらまいて、ゆるゆると、さりげなく回収していくのも恩田作品の特徴と言えるでしょう。インタビューでも「書き進めながら複数のイメージを取捨選択して発展させていきます」と語られています。
ごく一般的なミステリー小説なら、確固としたストーリーの樹木の中に種=伏線を文字通りに忍ばせるのですが、恩田さんの場合は草原にいろんなものを置いて、思い出したように好きなところから立ち寄り、集めていくという感じがします。視点にも、組み立てにも頓着していないのは(=頓着していないように見えるのは)、私に合っているなと思います。
ごく一般的なミステリー小説なら、確固としたストーリーの樹木の中に種=伏線を文字通りに忍ばせるのですが、恩田さんの場合は草原にいろんなものを置いて、思い出したように好きなところから立ち寄り、集めていくという感じがします。視点にも、組み立てにも頓着していないのは(=頓着していないように見えるのは)、私に合っているなと思います。
1から10までを説明するときに、ものごとを教えるのが上手い人は1、2、3…と順序立てて説明でき、必ず10からはみ出たことは言いません。しかし私はそれが苦手
で、だいたい、1、2、8、17、3、10みたいな流れで説明をしてしまいます。そういう私なので、バイオリズムの合う合わないは意外と大事なのでしょう


さて、私は小説家ではないですし、恩田先生のような感動を与えてくれるようなストーリーを書くことはできません。それにプロット(筋書き)にとらわれるのも苦手なので、どうしても記事は行ったり来たりしてしまう傾向にあります。でもプロットや順序を無視することも、ときに必要だと思っています。
サッカーの場合、東京発のネット記事の大半は時系列でつづられています。前半の立ち上がりはこうで、途中はこうなって、前半はこのようにして終わり、後半はこう展開し、終盤はこういう形になりました--。まさに90分間に起きたことはその通りで、記録として残すなら過不足ありません。
でも、記録ではなく、記憶(思い出)のための90分間を描こうとしたときに、神の視座(三人称単一視点)からだけの大河のような流れで良いのかなとも思います。もちろん大半の場合はそういう記事になってしまうわけですが

試合のレビューはそうなるとしても、人物像を描くコラムであればもう少し書き方が自由。時間の流れをかなり無視したり、あるいは逆に、博物館で順路に従って歩くのと同じように明らかな流れを作って書いていく場合もあります。前者は私らしい書き方で、後者は述べたように苦手ではあります。
最近の記事で言えば、たとえばJ's GOALに掲載したウォーミングアップコラムのうち、ギラヴァンツ北九州・高橋拓也選手の記事は明確に起承転結があるように記しました。後者の書き方ですね。1、2、3…と順序立てて記事にし、はっきりとした終着点に導けるように組み立てています。順路がある記事です。
高橋選手は特徴がある選手ですし、北九州に愛着を抱いてプレーしてくれています。その特徴や思いを伝えたいところですが、J3というカテゴリーゆえに高橋選手を説明する記事が少ないのが実情です。さらにはGKというポジションゆえに、フィールドプレーヤーと違ってゴールシーンのような分かりやすい場面を提示して選手像を想起させることもできません。
この場合、順序立てて情報を述べていかないと、読み手にたくさんのクエスチョンマークを点灯させてしまいます。選手の思いという良き終着点へ脱落者を出さずにたどり着けるよう、この記事では起承転結をセオリー通りに用いました。
この場合、順序立てて情報を述べていかないと、読み手にたくさんのクエスチョンマークを点灯させてしまいます。選手の思いという良き終着点へ脱落者を出さずにたどり着けるよう、この記事では起承転結をセオリー通りに用いました。
一方、レノファ山口FC・前貴之選手の記事では視座を固定せず、草原の中を行ったり来たりするように書きました。
前選手については多くの記事がありますし、前提となる情報をそれほど多く示す必要はありません。頭から本題に入っても問題がないので、彼のプレーに重なるリズムを出すことを念頭に、文章が多少飛んだとしても踊るような構成を選択しました。また、彼自身のクレバーさが文中からも行間からも伝わるよう、同じ意味の言葉でもいっそう語感の硬いものを優先的に選びました。
前選手については多くの記事がありますし、前提となる情報をそれほど多く示す必要はありません。頭から本題に入っても問題がないので、彼のプレーに重なるリズムを出すことを念頭に、文章が多少飛んだとしても踊るような構成を選択しました。また、彼自身のクレバーさが文中からも行間からも伝わるよう、同じ意味の言葉でもいっそう語感の硬いものを優先的に選びました。
個々の人物を記事にするとき、書き手は、自分たちは何も作りだそうともせず、ただ他者の努力の上澄みでものを書いているのだということを、強く自覚しなければなりません。せめて丁寧に書くことを心がけ、それができたなら人物の輪郭を、構成や語感を含めた総合力で伝えたいと思っています。もちろん往々にして自己満足に過ぎないのかもしれませんが

少し話が飛躍しますが、時代の移り変わりとともにテキストよりも映像に比重が置かれるようになり、語弊があるのを承知の上で言えば、分かりやすい感動がいっそう求められるようになりました。映像を制作される方も悩んでいると思いますが、行間という概念が薄くなり、1から10までを順序立てて説明しなければ、思わぬ誤解を招くようになってきたのも厳然たる事実です

映像を見るように刹那的に文章が消費されていく時代です。草原にばらまいた種を好きなタイミングで拾っていく楽しさを私が持っていたとしても、セーフティーに記事にするにはテレビの構成を頭に入れて、樹木のように整然と枝葉を広げなければなりません。あまり行間のない記事こそが安全な作品です。
意外に思われるかもしれませんが、隙間のない文章で間合いや機微を伝えるのは簡単なことではありません。適度に行間があり、跳ねるくらいのリズムがあるほうが、ものごとは伝わるものです。
感情は「嬉しい」「悲しい」と直接的に書けばよいというものでもなく、語感やリズム、あるいはそれらがもたらす余韻が、絶妙な感情の違いを読み手の脳裏に描かせます。どのような言葉を選択するかは書き手にとっては生命線です。(共同通信社の使用用語が業界のデファクトスタンダードになっているため、使える言葉には制限はありますが。※下の写真が共同通信社の「記者ハンドブック」)
なんとか頑張ってテキストで伝える努力は続けたいですね。線がくっきりとしていて、それでいて日本画のように柔らかな筆遣いを忘れなければ、感情や思いが伝わる記事は届けられるでしょう。私は記録というよりも、思い出の「よすが」となるような記事(コラム?)を書きたいと思っています。そういう文章ならばこそ、筆は感情のように生き生きと走っていなければなりません
意外に思われるかもしれませんが、隙間のない文章で間合いや機微を伝えるのは簡単なことではありません。適度に行間があり、跳ねるくらいのリズムがあるほうが、ものごとは伝わるものです。
感情は「嬉しい」「悲しい」と直接的に書けばよいというものでもなく、語感やリズム、あるいはそれらがもたらす余韻が、絶妙な感情の違いを読み手の脳裏に描かせます。どのような言葉を選択するかは書き手にとっては生命線です。(共同通信社の使用用語が業界のデファクトスタンダードになっているため、使える言葉には制限はありますが。※下の写真が共同通信社の「記者ハンドブック」)
なんとか頑張ってテキストで伝える努力は続けたいですね。線がくっきりとしていて、それでいて日本画のように柔らかな筆遣いを忘れなければ、感情や思いが伝わる記事は届けられるでしょう。私は記録というよりも、思い出の「よすが」となるような記事(コラム?)を書きたいと思っています。そういう文章ならばこそ、筆は感情のように生き生きと走っていなければなりません

話がずいぶんと広がりました。こういうように広げるだけ広げて、結局、回収できずに終わるのは失敗ですが、表に出て行く記事では読み手のみなさまを置いてけぼりにしないよう、気をつけたいと思います

最後に少しだけ、読んだ作品について。恩田陸さんの夏の名残の薔薇(文春文庫)は述べてきたように視点移動のあるストーリーです。幽閉された高級ホテルで起こる、あるいは起きたかもしれない事件を、何人もの視点を混ぜながら、二重らせんの中を惑うように話が進んでいきます。挿入される映像や音楽の表現も美しい、恩田さんらしい作品です。
夏の名残の薔薇(恩田陸)初出:別冊文藝春秋単行本:2004年9月(文藝春秋)文庫:2008年3月10日(文藝春秋、文春文庫)
それと、Instagramに「読み終えた」と書いた本は何かというと、湊かなえさんの物語のおわり(朝日新聞出版)です。北海道を舞台とした一人称単一視点の連続短編集で、こちらはきちんと順序よくストーリーが並んでいます。個人的な感想を言えば最後で語りすぎているのかなとも思いますが、このあたりは好み。作品を読んだ方とああだこうだと言い合いたい気もします。
物語のおわり(湊かなえ)単行本:2014年10月(朝日新聞出版)文庫:2018年1月30日(朝日新聞出版、朝日文庫)
疲れたので本を読みました。そういう取っ掛かりで始まったブログは、大草原の中を駆け抜けて、想像もつかないターミナルに到着しました。ここまで読んでいただいた方は、もしかしたら、恩田陸さんの小説にはまるかもしれません

今週はおのだ、新門司、きらら(阿知須)と取材し、週末は岡山に行きたいところですが、翌日にはミクスタでの取材もあるため、まだかなり迷っています。どうしましょう。私の生き方もまた決まった線路の上にあるというよりは、草原の中で小さな種を拾い集めているようです。