憲政史上初めてとなる退位。陛下はやはり憲政史上初めて、即位から退位まで一貫して「象徴天皇」として過ごされました。いくつもの報道がそう書いているように、象徴天皇がどうあるべきか、日々模索されてきたと思います。


象徴
(1)ある別のものを指示する目印・記号。
(2)本来かかわりのない二つのもの(具体的なものと抽象的なもの)を何らかの類似性をもとに関連づける作用。例えば、白色が純潔を、黒色が悲しみを表すなど。シンボル。
(広辞苑)


「象徴」という単語そのものに尊厳を感じ取ることは難しく、私自身はそれほど好きな言葉ではありません。しかし、現代の天皇像を模索した陛下の姿、人心に寄り添ってきたお姿は、平成という時代にあって多くの国民の心に深く刻まれたのではないでしょうか。


私は(名目上)昭和59年生まれ(事実上平成12年生まれ;永遠の19さい)ですから、当然ながら昭和の記憶をほとんど持っていません。昭和天皇が崩御されたか、新天皇が即位されたか、その時期の何らかの儀式がテレビで流れていたのがわずかに頭に残っていますが、記憶というほどのものではありません。

ですから、私の記憶はほとんど平成のものです。ずっと平成という時代を生きてきました。



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平成の31年間はどのような時代だったのでしょうか


経済は言うまでもなく右肩下がりでした。G7などで槍玉に挙げられる日本の姿がテレビを通して報道され、世界第二の経済大国と言われた国の凋落ぶりが、幼心にも伝わってきました。多くの銀行や証券会社が潰れたり、統合したりを繰り返し、とりわけ山一證券の破綻(平成9年/1997年)と「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから」と絶叫した記者会見は鮮明に記憶に刻まれています。

政治では首相が毎年のように変わる時期があり、それもまた国際社会でのプレゼンス(影響力)低下につながっていたと思いますが、自民党が下野したり(55年体制の崩壊、平成5年/1993年)、長期政権が誕生したりと、変革期にも差し掛かります。非自民政権の細川護熙内閣、自民党を二分した小泉純一郎内閣などは世相を色濃く反映しました。もっとも日本の政権選択は世界の潮流とそれほど乖離したものではありませんでした。


「平成」という日本の元号とは直接関係しませんが、アメリカで起きた同時多発テロ(平成13年/2001年)、いわゆる「3.11」は衝撃的でした。高校3年生のときで、家に帰ったら、小さなブラウン管テレビの向こう側で、2機目の飛行機が世界貿易センタービルに突っ込む様子が流れていました。あまりの衝撃に言葉が出ず、不謹慎ではありますが、高校生の私はただ「映画みたいだ」とテレビにつぶやいていました。

翌日。私は3年G組というクラスにいましたが、居心地の良いF組に行ってヘディングのうまい田村くんと黒板の前に座り、テレビが報じていた首謀者がどうこうとか、日本はどうなるんだという話をしていました。なんとなく怖かったのだと思います。


国際社会は間違いなくテロに時代に入り、アメリカはいわば首謀者の首を取るためにアフガニスタンに侵攻。その後、日本は自衛隊を同国のサマーワに派遣します。このとき、米国側が言ったという「ショー・ザ・フラッグ」という言葉や、派遣先が戦闘地かどうかの判断など、議論が続きました。

背景には当初は金銭拠出しか行わなかった湾岸戦争でのクウェート解放(平成2年/1990年)、逆に一定の成果を得つつあったカンボジア(UNTAC、平成4年/1992年)やゴラン高原への派遣(平成8年/1996年)など、国際社会が突きつける要求と国内世論や憲法との葛藤があったことも忘れてはならないでしょう。


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(カンボジア、トゥールスレン)


国内、つまり平成の世を生きる日本に再び目を向けると、やはり度重なる大きな災害は忘れることはできません。

中でも記憶の最初のほうにあるのが、阪神淡路大震災(平成7年/1995年)です。それに雲仙普賢岳の噴火豊浜トンネルの崩落(平成8年/1996年)なども記憶に残っています。

阪神大震災の6年前にサンフランシスコで大地震があり高架道路の一部が崩壊。このとき専門家が「日本でこういうことは起きないです」と話しているのが報じられていましたが、直下型地震を受けた神戸でいとも簡単に日本の交通インフラが倒壊。ただ鉄道も道路も急ピッチで復興への道を歩み、被災地ではボランティアの活動が注目されました。ボランティア元年とも後に言われるのは、この平成7年です。

この年は3月に地下鉄サリン事件が発生。とても暗い時期で、特に当時東京にいた人が感じた恐怖は相当のものだったでしょう。

雲仙普賢岳の噴火では加熱する報道で安全が犠牲になり、報道関係者が火砕流に巻き込まれるという事態(平成3年/1991年)が起きました。平成23年(2011年)には東日本大震災が発生。福島第一原子力発電所の事故を含む未曾有の災害は、8年という歳月が経た今でも暗い影を落としています。


こうした時代にあって、被災地に赴き声を掛け、祈られた天皇陛下、皇后陛下のお力は大変に大きなものがあったと思います。



平成は、しかし、新たな時代の扉も開けました

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Jリーグは平成5年(1993年)に誕生。阪神淡路大震災と時を同じくして始動したヴィッセル神戸をはじめ、各地域にJリーグクラブが広がり、日本にプロ野球とは違う新しい風を吹き込みました。もっともプロ野球も古田敦也さんなどが中心となって選手の側からの改革のうねりが生まれていきます。野茂英雄さん、イチローさんなどメジャーリーグに挑戦する選手が増え、サッカー界の三浦知良選手、中田英寿さんなどとともに、日本人が当たり前に世界に飛び出していく時代になりました。

相撲では、私は寺尾関が好きでよく応援していたのを覚えています。水戸泉関は塩を大量にまくパフォーマンスで知られ、技のデパートと言われた舞の海関、大きな体で観客を湧かせた小錦関など百花繚乱。貴乃花関は大横綱で、土俵上での美しさにおいて比肩する横綱はその後はまだ出てきていないでしょう。ただ近年、相撲界がさまざまに揺れているのは本当に残念です。


新時代という点では、パソコン向けのOS・ウィンドウズ(Windows)が普及。続いてインターネットが爆発的に広がり、携帯電話の小型化、スマートフォンの誕生とともにソーシャルメディアが全盛期を迎えました。


私が最初に手にした携帯電話は東芝製の端末で、その後も長くJ-PHONE(今のソフトバンク)と契約。モノクロ画面ながら軽量で操作がしやすかった「J-P02」、同じく操作性が良くプニプニチェリーという謎のキャラクターが画面を彩った「J-SA04」などはお気に入りの端末でした。


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(J-SA04)


昭和では考えられなかった、どこでも、誰とでもつながり合う世界が到来し、デジタルネイティブ、インターネットネイティブの新世代は、それまでとは大きく違う考え方や価値観を持つようになりました。よく言われる「若者の〇離れ」は当然の流れと言えるでしょう。


大衆文化では、音楽ではロックバンドが隆盛を極め、「B'z」「Mr.Children」「GLAY」などがスターダムにのし上がっていきます。女性のボーカリストも人気を集め、宇多田ヒカルさん、安室奈美恵さんなどは生き方そのものが注目されました。ジャニーズ系のバンドやAKB48など、アイドルも時代を象徴するアイコンになっていきます。

私が好きだった「GARNET CROW」は打ち込みを多用する手法が特徴で、これもまた現代のアーティストらしい側面がありました。平成25年(2013年)に解散したのは今でも惜しいなと思っています。私は「B'z」も好きで、MP3プレーヤーやスマートフォンに入っている音楽の約半数はB'z。最も好きな曲が「月光」(歌詞)なのは今でも変わっていません。
(「夢の道端に咲く花」のあたりの秀麗で秀逸な歌詞は3時間くらい語りたいです)


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文学では直木三十五賞(直木賞)に注目すると、平成10年代は女性作家が台頭。唯川恵さん、村山由佳さんなどが受賞し、時代背景に起因してか個人の内面に迫るような小説が多く書店に並びました。それは、平成15年(2003年)の音楽界を席巻したSMAP「世界に一つだけの花」のヒット理由と同じなのでしょう。私がよく読む恩田陸さんは平成28年(2016年)に同賞を受賞していますが、有力候補に挙げられていた恩田さんの受賞がここまで遅れたのは、時代の針が一つ進まなければならなかったからなのかもしれません。

科学分野では衛星を打ち上げるロケットの成功確率が高くなり、宇宙分野における日本の力は大きくなってきました。ノーベル賞でも物理学、化学などで多くの受賞者を輩出。とりわけ化学賞では田中耕一さんがいわゆるサラリーマンとしては日本初の受賞(平成14年/2002年)。明るい話題に日本中が湧きました。


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一方、身近なところの話をしていきますと、北九州市や山口県は人口が減少に転じ、経済も悪化。デパートなどが相次いで閉店するなど、特に八幡西区黒崎、周南市徳山などでは市街地の地盤沈下が心配されました。

それでも北九州市では小倉都心部を牽引役に再浮揚。新北九州空港の開港(平成18年/2006年)や門司港レトロ地区の開発などを追い風に、市全体が観光地としても注目されるようになりました。黒崎駅周辺も再開発が軌道に乗りつつあります。山口県も地価をみれば下げ止まり、新山口駅周辺や下関駅周辺などで開発が進展。徳山駅はリニューアルされ、県内主要都市が再び力を蓄えてきています。なんとか少しでも上向いた状態で新しい時代を迎えられそうです。



さて、最後に私の話をすると、中学3年のとき、4人制の教室ディベート選手権・九州大会で「第二反駁」という重要なポジション(最終攻撃者で、現行のルールは分かりませんがサッカーに例えればFWでありGK)を担い、市町村立の一般中学校としては初めて優勝を飾りました。予選で久留米附設には敗れましたが2勝1敗で決勝トーナメントに進出。決勝の佐賀附設戦でも苦戦は強いられましたが、コミュニケーション点などでわずかに上回り、(大学附設や私立ではない)公立中学校初の快挙を成し遂げました。本当に涙の出るような勝利。後にも先にも優勝の「盾」を手にしたのはこのときしかなく、平成10年(1998年)にして人生のピークを迎えました。

その後の凋落ぶりは見ての通りで、令和時代に盛り返せるのか、そのまま落ちていくのかは、客観的に見て楽しみです。ただ、教室ディベート選手権に向けた勉強で数字が嘘をつかないことは認識させられました。正しい数字は、正しい論につながる--。この見方は今でも大切にしています。


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(全国大会に出場も早々に敗退したので、ディズニーランドへ)


平成は激動の時代でした。インターネットが広まったり、核家族化が進んだり、地域との絆が薄れたりしていくにつれて人心が分断され、もはや後戻りができないほどに「個の時代」になっていきました。しかし、そういう時代だからこそ、象徴天皇の果たした役割は大きかったのではないでしょうか。多くの災害に見舞われた日本列島に、立ち上がる力を与えてくれたと思います。



 今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました。

 ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。

 即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。

 明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。
(退位の礼でのお言葉)



もう一つ言わなければならないのは、世界が大きく揺れ動く中にあって、日本が再び戦争には突き進まなかったということです。平和外交ができているとは到底思えず、ダブルスタンダードの外交になっているのは言うまでもありませんが、それでも昭和初期と同じ道は進みませんでした。

私自身は政治に明るいわけではなく、左も右もよく分かりませんが、来たる時代も平和であってほしいと願います。それは日本だけではなく、世界がそうあってほしいと思います。


いま、サッカーチームを追いかける仕事をしていて、それは平成初期の私には想像もつかなかった仕事ですが、やりがいを感じています。そして、試合がある日の何にも代えがたい感動無垢の喜怒哀楽と、それを友だちがいないなりに仲間と語り合える嬉しさは、純粋にスポーツに打ち込める平和な世界があってこその財産だと思います。

ペンは剣よりも強く、感動はそのペンよりも強く、ものを言うはずです。世界の子どもたちが兵器に手を染めていくのではなく、ある者は勉学に、ある者はスポーツに励み、人を殺し合うのではなく、人を讃え合い、助け合う世の中になっていければ、かけがえのない美しい世界になるでしょう。


 初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす


まさに美しい世界観を言葉に秘めた「令和」という時代を迎える日本。率先して明るい時代を作っていかなければならないと思います。

平成に感謝し、令和に希望を抱き、5月1日を迎えます。