現実とファンタジーの間に、線はないほうがいい。

 
今年もリバーウォークに再興院展(秋の院展)がやってきた。(秋の院展が春にやってくるのは恒例)
 
今回の作品群は、総じてモチーフがかなり現代的だということが特徴だろう。また、作品中の人物に関しても、身につけているものや佇まいがこの2010年代を十分に反映している。そしてまたそういう作品が敬遠されずに選ばれていることに、日本美術院の原点を見る。 
 
 
20170420_1
(図録表紙絵は高橋天山画伯の「紫上」、北九州展チケット券面は宮北千織画伯の「華」)

 
重要表彰作品は4点。

 
内閣総理大臣賞は村上裕二画伯の「気」が選ばれた。馬にまたがる人が、人馬一体、呼吸を合わせて何事かを成そうとする一瞬を捉えている。構図、絵全体の流れそのものから力強さ、まさに「気」を感じる作品。だが、気迫があると言っても筆は荒れず、繊細さが随所に見て取れる。

文部科学大臣賞は大野逸男画伯の「信仰の道」。森の中を行く石階段の古道を描いた作品だ。一筋の光が通って見え、タイトルを示さずとも神仏に由来するものだと気づかされる。アイデアに挑むのではなく、技術の高さや精緻さという画家本来の力で描かれた傑作。

日本美術院賞は2作品。
山本浩之氏の「道化」は色遣いの淡い幾何学世界の中に、裸婦が、やはり色を無くして静かにこちらを向いている。画家は「強い感情のようなものをテーマに描いてみようと思いました」とキャプションを寄せる。その言葉の通りに芯の通った意志が感じられる佳作だ。

前田力氏の「憂いの街」は廃れたプラント(キャプションによれば「呉の製鉄所」)を背景に、路面電車が赤色でハイライトされている。色のない少年、機能を終えた踏切の警報機などが禍々しくもある。絵全体の破綻がなく、恐いようでいて見とれてしまう作品。本展で一番長く眺めた。

 
 
これらの受賞作以外に注目した作品はこちら。

 
まず、同人から。

田渕俊夫画伯の「飛鳥川心象 春萌ゆ」は文字通りに奈良・飛鳥川の春めく瞬間を切り取った。モノトーンながら燃え上がるような春の喜びを感じる。残念ながら美術館くらいの奥行きでは本質は見えないかもしれない。例えばホテルのドアを二つくぐった先、その奥の方にこの作品が見えていたら、きっと心の中まで春の陽光が差し込んでくるはずだ。

毎年、作品を楽しみにしている福王寺一彦画伯。今回は「月と星の光の中で」という題の作品を出品した。樹間の月を美しく描く福王寺画伯。今作は少し趣が異なり、大樹と月はむろん描かれているが、それに星や星屑が舞っている。「月と星の光につつまれた夢に観た光景」というキャプション通り、誰もが一度は見た夢の世界。只々、美しい。


那波多目功一画伯の作品は「アイガー北壁」。死の壁とも呼ばれるスイスの岩峰。恐ろしくも幽玄な山容を、那波多目先生らしい見事な筆致で表現している。壮大なテーマに対して無理に抗わず、しっかりと筆を流している。その強かさにも感動を覚える。それにしても、このとりとめのない(為す術のない)偉容に観る側は結局は引き込まれるのだから不思議である。

題材とした場所は変わるが、川瀬麿士画伯の「北端の岬」も茫漠たる景色に息をするのも忘れて見入ってしまう。恐ろしいのだ。灯台と一筋の道、そして延々と広がる荒野が描かれている。根源的な怖さと同時に、もし自分がその絵の風景の中に居たら、何を思い、何を考えるだろうかと己に問うてみたい。絵の小説性を感じる作品だ。


松村公嗣画伯の「春待つ」は雪景色の中でふわりと立つ「いたち」を主役にした。キャプションには「春を待ち遠しく思ういたちの顔」を描いたとある。興味深いのはいたちに覆い被さるように垂れている冬枯れの木枝。白と黒の世界なのに、よく見れば青や赤や黄色の斑点がきらり光る。春を待つ感情の機微を描いているようでおもしろい。

西田俊英画伯の「コロポックルの月」は地面すれすれのところに視点が置かれ、観る側は上空の月から地面へと目を移して行くにつれて、作品に引き込まれていく。地平には様々な姿の兎がいる。キャプションによれば「アイヌ語で蕗の下の神様を意味します」というコロポックルを数羽の兎の姿で描いた。構図がきれいで、描き方も繊細。

 

そのほかの入選作品から。

西澤秀行氏の「春分の頃」は光まばゆいリビングで、ぬいぐるみを持って無言のコミュニケーションを図る母娘を描いている。愛情を存分に感じる。驚いたのは母娘の装いが現代そのものだという点。それも普段着で、華ある衣裳でも着物でもない。等身大の親子のありふれた日常が今や絵になり、評価されている。そして確かに飾りたいと思うのである。


現代的という点では守みどり氏の「室内風景」も描かれている女性は決して特別な着飾り方ではない。カンバス全体の色遣いは青緑に沈む冷たい世界。人物だけが温度を持ち、はっきりとした表情を作る目や、植物を入れた籠をしっかりと握る左手が何かを語ろうとしている。日常もまた単なる風景のように過ぎ去る現代を、うまく切り取ったように思う。

藁谷実氏の「廻廊」はモスクの回廊と窓を優しい陽光の中に描いた作品。「日本美術院的な作品」の延長線上にある作品と言えそうだ。決して「ワン・オブ・日本美術院的作品」ではなく、その先にあるような印象を受ける。全体をつらまえるのではなくかなり限定された区画を描き、無人であるにもかかわらず有人の温度がある。興味をそそられる。


 

【感想】

いずれ、日本美術院同人の絵画にもスマートフォンやタブレットが描かれるようになるのだろうか。

私は現実とファンタジーの間に線のない作品が好きだ。ありえそうで、ありえない。ありえないけれど、ありえるかもしれない。そんな作品こそ妄想を具現化できる美術や文学の為せる技だ。生身の人間としては実行に移さないのだけど、茫漠とした景色の中に意味を持って佇んでいたい。都合よく荒野なんてありえないし、そんなことをしている余裕などはない。けれどありえないとも断定できないのだから、頭と芸術のなんと都合のいいことか。

今回の展示会では衣裳の現代性に目が行った。これまでも当世風の装いはあったが、普段着やオフィスワーカーを描いた作品(北九州展では非展示)もあり、かなり生活に近い印象を受けた。日本美術院的な作品という見えない枠からは逸脱していないものの、確かな変化を見た。

ただ、衣裳は人間が有史以前から何らか身につけてきたもの。全く新しい造物ではないので、チャレンジングではあっても、枠を広げること自体は難しい作業ではなさそう。では、歴史にもなっていないモノは描かれるだろうか。例えるなら、そう、スマートフォンやタブレット。

もし川瀬麿士画伯の「北端の岬」の作中にスマートフォンの明滅があれば、どう感じるだろう。あまりに俗っぽくなって興ざめするかもしれない。いや、逆に孤独を際立たせられ、現実とファンタジーを行き来する絶妙な間合いを描ける可能性もある。現代人の妄想の中にスマートフォンやタブレットが幅を利かせてきたなら、(現代アートではない)伝統的な絵画の中にもそれは登場しても不思議はない。妄想する癖は普遍的でも、妄想の中身はいつだって不変ではないのだから。
 
携帯電話が登場した頃よりも見えない枠は広がっている。そしてスマートフォンは携帯電話以上に日常に染みこんできている(むろんデジタル端末以外にも妄想世界を満たす新たなものは多いだろう)。今年は衣裳に目が行ったが、現実とファンタジーや妄想の間を行きつ戻りつする(ことの多い)絵画世界に、「そう来たか」と両手を叩くような新たな題材にも期待したい。「春の院展」ではなく秋の「再興院展」でこれからどんな作品が見られるか、変化への全く新しい希望を感じた今年の展示会だった。

 

なお、北九州展は表紙絵原画を含む75作品を展示している。

 
●再興第101回 院展 巡回展(北九州)
会期:2017年4月7日~5月7日 ※会期中無休
会場:北九州市立美術館分館(リバーウォーク北九州5階)
開館時間:連日午前10時~午後6時(最終入場午後5時半)
料金:一般1000円、高校生・大学生600円、小中学生400円
  (井筒屋withカード、JAFカード等の提示で割引あり)

今後、島根今井美術館(5月12日~6月1日)、クリエート浜松(6月6日~6月18日)を巡回し101回展は閉幕する。